奥州葛西氏
桓武平氏で葛西清重を祖とする。秩父氏(埼玉)の一族豊島氏(東京)を本家とする。葛飾区を本拠地とし、その分家は鎌倉をはじめ関東近辺に存在した。1189年頼朝の奥羽州藤原攻めに先陣として参戦した武功著しい戦国大名である。
1192年~1590年豊臣秀吉による「奥州仕置き」まで約400年もの間、葛西五郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・女鹿・本吉・六十六島等、現宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土の支配者であった。最盛期は葛西七郡三十万石と称せられた。
葛西氏は1192年鎌倉幕府設立当初より重鎮として頼朝に仕えてきた。6年後不慮の死を遂げた頼朝亡き後も北条政子に仕え武家政治の繁栄に尽力した。頼朝の死は政子の毒殺では?と云う説もある。頼朝は「源氏系」政子は「平氏系」、葛西氏も平氏であります…
政子にしてみれば平氏一族の無念をはらしたのかも…世の男性諸君、くれぐれも女性を大切に敬いましょう!!…くわばら・くわばら…。
(葛西氏の家紋は三つ葉柏であります。その祖は海のシルクロードより渡来してきたエブス人と云う説もある。又、七福神の恵比寿神の祖であり、大阪吹田の恵比寿神社の社紋は三つ葉柏であります。ちなみに柏の文様はユダヤ教神器を意味すると云われています。)
家臣一覧
・山内首藤氏(坂本龍馬出生の土佐藩主:山内容堂公祖) ・矢作氏・黒沢氏(現秋田県鹿角市地区に多い) ・岩淵氏・金(今)氏(朝鮮半島よりの渡来系で主として焼き物・鉱山技師の集団・北東北地方の鬼伝説に大きく関わる一族と云われる) ・寺崎氏・熊谷氏・浜田氏・大原氏・星氏(宮城・福島郡山地区に多い)・柏山氏・江刺氏・薄衣氏・長坂氏・二階堂(工藤氏を本家とし同族には伊藤氏がある)・寺池氏・亀掛川氏
奥州仕置・サイカチ伝説
1590年秀吉は北条氏居城の小田原城攻めの際、全国の諸大名に参戦するよう布告した(敵、味方の判別の為である)。その頃、葛西領では内紛や地元豪族大崎氏との戦いの最中の為、うまく伝達されず小田原へは参戦できなかったのである(秀吉からの伝達事項は常に隣国の将伊達正宗を介してからなので、葛西領乗っ取りを企む伊達氏の陰謀とも云われている)。
参戦しなかった事に怒った秀吉は領地没収し、配下の木村氏を葛西領の新領主として送りこんだ。が、葛西氏は敵である大崎氏と手を組みわずか2カ月のうちに木村氏を滅ぼしてしまったのである。
それに激怒した秀吉は15万の兵で葛西氏を打ち取ろうとしたが盟友伊達氏の仲裁によりそれは回避となった。その後、伊達氏は秀吉への仲裁を約束し葛西氏一族を盛岡城に集めた。しかし、それは伊達氏の陰謀であり何も知らない葛西一族は3万の伊達兵により城内に斬り込まれ終焉を迎えるのである、「なで斬り事件」。
僅かではあるが生き延びた一族は伊達氏・南部氏の家臣となり、更に一部は津軽へ逃げ延び安倍氏を名乗った(葛西姓だと伊達の追手に狙われるので当時津軽の豪族であった安倍氏の姓をもらい御家再興の時を伺った。現五所川原市原子の阿部氏(現五所川原市教育委員長)は18代続く旧家であるが、祖は岩手より来た葛西であり、家紋の三つ葉柏がそれを証明しています)。
当時、岩手方面から逃げ延びてくる一族が、たとえ姓が変わっても、その家が「葛西」だと分かる様に植えられた木が「サイカチの木」であります(もちろん原子の阿部家にも樹齢400年のサイカチが現在も生きています、又筆者宅裏山には逃避してきた葛西一族が約7年間潜伏していたと思われる場所がある。現安倍16代当主の話と津軽平野を一望できる高台・約樹齢400年のサイカチ木・古井戸跡がそれを証明している様に思える)。
平川市方面の葛西と西津軽の葛西は仕置き前に移り住み地元の一豪族として君臨してきましたが、南部氏の家臣である大浦為信(大浦家7代当主と云われているが初代当主は福士氏であると云う説もある。ちなみに筆者の父方は葛西で母方は福士であります…なにやら古よりの縁を感じます)による津軽統一独立戦争時は、真っ先に為信方に参戦した西の葛西氏と南津軽の葛西氏は同族同士で戦い、平川城は落城となりました。
人類の歴史は戦いの歴史であります。が、いつか訪れるであろう永久的平和構築に向けての戦いであったら…と想う次第です。
龍二ことペンネーム 葛西 青龍