津軽三味線「津軽人とボサマ」
昔、津軽人(つがるびと)にとって「ボサマ」は、社会的地位の底辺に位置する「ホイド…乞食(こじき)・物貰(ものもら)い」等として蔑まされてきた経緯がありました。
又、現在県外での「ボサマ」に対する認識は、暗く・辛く・悲しく・寒く…それが、あたかも「津軽」そのものだと云わんばかりに語っておられる方もおりますが、そうではありません。
当時(現在も…?)津軽の人々の生活は大変でしたが、そんな中でも「ボサマ」が門付(かどづ)けに来れば追い返す事無く、僅かばかりではありますが、米・金銭等を分け与え、彼等(かれら)が生きて行けるシステム「福祉の心」があったのです。津軽人は彼等の存在を「津軽に生きる者」として認識していたのです。
一説に依(よ)れば、祝い事のある民家では「ボサマ」を奥座敷に上げ、所謂「上げ膳・据え膳」にて持成(もてな)す事が、その土地の有力者で有る事の証であったとも云われております。
彼等ボサマは、そんな人々の心に応えるべく日々精進し、更にその技術を受け継いだ者達がそれを進化させ今日に至る「津軽三味線」が構築されてきたのです。
つまり、「津軽三味線」を生み育んできたのは「奏者(そうしゃ)」は元よりこの地に生きる「津軽人の優しさ・福祉の心」と云っても過言ではないでしょう。
葛西青龍 著